TANUKI夫婦の古社寺巡り 下関(赤間関)の古社寺
 下関(赤間関)の古社寺
亀山八幡宮
亀山さんの大鳥居 初詣の時・・・鳥居の下から参拝の行列 亀山さん本殿
下関は「ふく」・・・ふくの像 神社の前には関門海峡が・・・ 山陽道の起点です
亀山八幡宮は、下関の中心部にあり「関の氏神様」「亀山さん」として下関市民に親しまれている神社です。TANUKI は、ここ下関の生まれですので、初詣と言えば、まずは亀山さんと思っています。
お宮の起源は平安時代に遡るようで、当時この地は島だったようです。室町時代には遣明船の航海安全を祈ったと記録にあります。戦国大名大内氏やその後の毛利氏の庇護があったようで、十返舎一九の「金草鞋」に「・・・・亀山八幡とて岩の上にありて波打際に石の鳥居立てり山上は見渡し絶景の処なり・・・・」と記されているように、鳥居のすぐ前が関門海峡だったようです。鳥居の側には「山陽道」起点の碑が建っています。ここから九州へ関門海峡を渡ったと考えられます。TANUKIが子供の頃は、唐戸市場(魚市場)は鳥居の側で、鳥居の前を路面電車が走って・・・・その先は、すぐ海でした。今は、埋め立てられ、道路を挟んで唐戸市場などができています。
境内には「ふくの像」があります。下関では「ふぐ」じゃなくて「ふく」と言います。豊臣秀吉の時代から明治時代まで、武士は河豚食を禁じられていました。伊藤博文が赤間神宮近くの「春帆楼」で河豚を食べ、その味に感嘆して山口県下では河豚食が解禁されたと言われています。下関のふく連盟の方々により、ふくの慰霊祭も行われています。
赤間神宮
昔は海から参拝していたそうです 赤間神宮 鳥居と水天門 赤間神宮 水天門
水天門をくぐって境内へ 赤間神宮 大安殿 先帝祭 上搦Q拝
源氏平家の壇ノ浦(だんのうら)の戦いでで入水された安徳天皇を祀る神宮です。境内には安徳天皇の墓所「阿弥陀寺御陵」がありますし、平家一門の合祀墓(供養塔)、名前に「盛」の字が付く者が多いことから「七盛塚(ななもりづか)」と言われる供養塔が並んでいます。また、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談で知られる「耳なし芳一」の木像が祭られている芳一堂もあります。宝物殿には「長門本平家物語」「源平合戦図」など貴重な資料があるとのことですが、TANUKIは、まだ見たことがありません。
毎年5月に「しものせき海峡祭り」「先帝祭」が開催されます。「上搏ケ中」は、壇ノ浦の戦いの後に在地の苫屋に援われた建礼門院の侍女達が、先帝会には容姿を整えて参拝したことに縁由すると言われています。侍女達が亡くなった後、その後妓楼を営むようになった苫屋の主人が遊女達にその風俗を真似て参拝させるようになり、江戸時代になってからは、当時存在した稲荷町遊廓の遊女によって受け継がれていったと伝えられています。現在は、吉原の花魁を模した太夫が禿(かむろ)や上臈、稚児、警固(けいご)などを従え、伊崎町から赤間神宮まで、下関市中を外八文字を踏んで歩きます。中でも一番の見所は赤間神宮での「上搦Q拝」です。水天門から大安殿まで「天橋」という祭りのために懸けられた橋を外八文字を踏みながら渡ります。圧巻です!
大歳神社
大歳神社 鳥居と参道 境内に「七卿落ち」の画碑がありました
下関駅近くに、山に向かってまっすぐに伸びる階段と鳥居があります(今は、ビルが増えて見つけ難くなくなりましたが・・・・)。前から気になっていいた神社です。下関に住んでいる叔母に聞いたら、とても眺めの良い神社とのこと。早速行ってみました。
石段の前に神社の縁起などを書いた看板がありました。源氏&平氏の壇之浦の戦いの時、源義経が戦勝祈願した神社で・・・・維新前夜の馬関戦争の時に高杉晋作がどうのこうのといったことが書かれていました。境内前の大鳥居は、明治維新を資金面で支えた豪商、白石正一郎が寄進したものだそうです。何かとても由緒ある神社なのですね。
長い石段を登り、境内へ。境内の端に「七卿落ち」の画碑がありました。「七卿落ち」とは、明治維新の直前、京都朝廷で起こった政変で反幕府派7人の公卿が京都から追放され長州に下った事件なのですが・・・・その公卿のうちで明治天皇の叔父さんに当たる中山忠光公を暗殺する手伝いをしたのが、豊浦郡田耕(たすき)村の庄屋山田幸八なのですが・・・・実はTANUKI の一族です。山田家はその後絶えていますけど・・・・TANUKI も従弟たちも祖母から「中山神社には近づいてはいけない」と言われて育ちました。
で、肝心の眺望なんですが・・・・一生懸命、山の上まで石段を上がったのに、周囲に高いビルが建ち並んでしまって、関門海峡も見えませんでした。御朱印を頂きに行き、巫女さんに「眺めが良いと聞いてきたんだけど、何も見えないね。」と言ったら「そうなんですよね。海側に高いビルがいくつも建ってしまいましたからね。お年を召した方からは、昔は関門海峡が一望できて、素晴らしい眺めだったと聞いていますけど・・・・。」とのことでした。そう言えば、叔母が「私が子供の頃は、石段下の鳥居の所までが海で、波がバシャバシャ上がってきてた。」と言ってました。今は・・・・鳥居から海までは、ビルが建ち並んで結構な距離があります。関門海峡もずいぶん狭くなったのでしょうね(?)。
厳島神社 (長門國 厳島神社)
厳島神社の鳥居と参道 厳島神社 社殿 小倉口の戦いの戦利品 太鼓
厳島神社は、現在、海からは少し離れた場所にありますが、周囲の地名は「新地」で、鳥居の側に「萩藩新地楷書跡」の石碑が建っています。新地というのは言葉通り新しく開墾や埋め立てた地と考えられますから、昔はこの近くまで海が迫っていたと思われます。
この神社周辺から後述の「桜山神社」に至る周辺は、高杉晋作や長州奇兵隊にゆかりが深い地のようです。神社の裏手から小高い丘に登る途中に、高杉晋作が病気療養をしたという跡がありますし、神社の鼓楼に置かれている太鼓は、慶応2年(1866年)徳川幕府による第二次長州征伐において、高杉晋作が指揮する奇兵隊・報国隊の2隊を先鋒とした小倉口戦いは、最大の激戦となりましたが、幕軍総帥小笠原壱岐守が小倉城を脱出、小倉藩は自ら城に火を放って敗走。攻め入った長州軍は余燼の中から、この太鼓を持ち帰り、高杉晋作が戦勝祈願を行った嚴島神社に奉納したとのことです・・・・小倉に返さないで良いのかな?
桜山神社
列車から見える桜山神社鳥居 鳥居に続く長い階段の参道 桜山神社 社殿
ゆふいんの森(キハ72系) 博多駅にて 神社の奥に招魂碑が並んでいた 吉田松陰、高杉晋作などの慰霊碑が並ぶ
山陽本線の列車で幡生駅を過ぎて、下関駅との間で切り通しのような所を通ります。そこの下関駅に向かって右手に鳥居と長い階段が現れます。(かなり注意しておかないと一瞬で通りすぎてしまいますが・・・・)
この地は、幕末に高杉晋作などにより結成された奇兵隊の調練場跡だったようで、高杉晋作が発議して招魂の場としたようです。
そのため、祭神は、吉田松陰、高杉晋作、久坂義助、河上弥一、 白石正一郎、白石廉作、山県有朋などの長州藩奇兵隊士、豊浦藩報国隊士、 膺懲隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊などの諸隊士で、身分の区別なく祀られているとのことです。
招魂場となってから桜が植えられ、櫻山と呼ばれるようになったそうで、すぐ近くには下関市立桜山小学校などがあります。なお、山陽本線の開通に伴い、ここが切り通しになったようで、昔はここから前述の「厳島神社」へ山伝いに往来できたと考えられます。