TANUKI夫婦の古社寺巡り 巣の周辺の町の古社寺 その1
 
周防国分寺
周防国分寺 仁王門 仁王門から境内へ
周防国分寺 金堂(本堂) 夏はサルスベリの花がきれい!
浄瑠璃山 周防国分寺 高野山真言宗 別格本山 本尊:薬師如来

周防国分寺は、天平13年(741)聖武天皇の勅詔によって全国に68ヶ寺建立された寺院の1つです。創建当初は、南大門・中門・回廊・金堂・講堂・七重塔などの七堂伽藍があり、本尊は、丈六の釈迦如来だったと伝えられています。
創建以来、火災などにも遭っていますが、この地を治めていた大内氏や毛利氏により再建や修復がされています。金堂の解体修理に伴う発掘調査で、現在の金堂は奈良時代、創建当初の金堂の上に再建されおり、創建当初から、その位置が動いてないことが、判明致したそうです。これは全国的に珍しいことのようです。また、現在のご本尊は、室町時代の薬師如来坐像(重文)で、解体修理の時、薬師さんの中から消失時に救い出された昔の本尊釈迦如来の手が発見され、また薬師如来が持っておられる薬壺(やっこ)の中から実際に薬草が発見されたそうです。他に例がないことのようです・・・・その他、金堂には、平安時代初期の日光・月光菩薩(重文)、藤原時代初期の四天王(重文)をはじめ、数多くの仏像が安置されています。お寺の説明によると、江戸時代までは多くの末寺があったようですが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、それらのお寺の仏像が金堂に移されたとのことでした。
ご本尊の薬師如来さんも、すぐ近くで拝観することができます。間近で仏像を拝観できるなんて・・・・何か奈良のお寺のようです。
薬師さんは、とても静かなお顔で・・・・前に座ってると、何か包まれたような気持ちになれます。何度でも訪れたくなるお寺です。
阿弥陀寺
阿弥陀寺 仁王門 素敵な仁王さんがおられます 長い階段の先に山門が・・・・
阿弥陀寺 本堂 阿弥陀寺 開山堂 アジサイ寺として有名です
東大寺別院 阿弥陀寺 華厳宗 本尊:阿弥陀如来 アジサイの寺として有名

東大寺の再建のため周防国に赴いた俊乗房重源さんによって、1187年(文治3年)東大寺の周防別所(別院)として創建されたお寺。阿弥陀寺の住職は周防国の国司の任にあたったようです。お寺は、1484年(文明16年) に焼失したようですが、大内氏の援助を受けて再興されたそうです。
お寺の入り口には萱葺きの仁王門があり、鎌倉時代初期に快慶一派によって作られたとされる2躯の仁王像(金剛力士像)が入り口を守っています。仁王門の改修工事のため、しばらく宝物館に移され・・・・寂しい時期もありましたが、仁王門の改修も済んで、また素敵な仁王さんに会えるようになりました。
境内には、80種、約4,000株のアジサイが植えられています。アジサイ寺として有名で、アジサイのシーズンは「アジサイ祭り」も開催され、多くの参拝者で賑わいます。
境内には、重源さんが東大寺再建のための木材伐り出しに従事する人夫たちのために設けたと言われる石風呂が文化財として残っています。今でも毎月第1日曜日に石風呂が焚かれているようです。一般入山者でも有料(薪代)で入浴することができるそうです。
防府天満宮
防府天満宮 参道 参道の先は萩往還道へ続いています 参道階段を使って「花回廊」イベントが・・・
防府天満宮 楼門 天満宮を囲むように梅園が・・・・梅の名所になっています
防府天満宮は、菅原道真公を祀る学問の神様として、ローカルでは受験生などに超人気(?)の神社です。また、天神様と言えば梅ですが、ここも境内を囲むように梅園が作られ、梅の名所としても知られています。TANUKI 夫婦も毎年、梅を見に出かけています。
防府天満宮のホームページを見てましたら「防府天満宮は日本で最初に創建された天神さま」という記述がありました。え〜っ?そうなの?・・・よく読んでみましたら・・・言い伝えとして(神社や市のHPには史実のように書かれていますが・・・)道真公は流罪となって九州大宰府へ行く途中、周防国(山口県)の国司で、同族の土師氏を頼り防府の勝間の浦に着かれたそうです。その時「ここはまだ、天皇のいらっしゃる京の都と地続きである。願わくはここ松崎の地に住まいを構え「無実の知らせ」を待っていたい。」と願われ、「身は筑紫に果つるとも、魂魄は必ずこの地に帰り来たらん」とおっしゃって九州へと旅立たれたそうです(・・・・九州の人、怒るよ!差別じゃん!)。で・・・・大宰府にて薨去されたちょうどその日、防府勝間の浦に神光が現れ、酒垂山(現在の天神山)に瑞雲が棚引き人々を驚かせたとのこと(・・・・これは伝説すよね!)で、その翌年に「松崎の社」を建てたとのこと。だから一番古い「天神さま」なんだそうです。
秋には通称「裸坊祭(はだかぼうまつり」が開催されます。正式には「防府天満宮御神幸祭」。勅使降祭・・・・道真公に「無実の知らせ」を伝えるお祭りなんだそうですが、町をあげての祭りで西日本屈指の荒祭りと言われています。5,000人近い裸坊と呼ばれる白装束の男たちが、それぞれの団体の提灯を掲げて、網代車や神輿の周りを「兄弟わっしょい」のかけ声と共に乱舞します。町内名の提灯、会社名の提灯、役所や学校などの提灯も乱舞します・・・・この日だけは、政教分離も何もありません。それだけ市民に溶け込み、無くてはならないお祭りのようです。TANUKI も若い頃・・・・防府在住の上司に誘われて、まだ小さかった2人の息子を連れて数回参加しましたが・・・・今思い出しても高揚感を覚える素晴らしいお祭りです。
TANUKI が境内で一番好きな場所は「春風楼」です。宮島の千畳敷には負けますけど・・・・木造で、大きな二階建てで吹きさらしの建物です。毛利の10代藩主が五重塔を造ろうとして、財政難で途中で断念。楼閣にしたとのこと。床下には五重の塔の軒下の組物をそのまま組み入れてある面白い建物です。ここからの防府の町並みの眺めは絶景です。
大 寧 寺
木立の中に大寧寺本堂 境内の紅葉 盤石橋(ばんじゃきょう)
境内の羅漢像 大内義隆公墓所 長門豊川稲荷神社
瑞雲萬歳山(ずいうんばんぜいさん) 大寧寺(たいねいじ) 曹洞宗 本尊:釈迦如来 正式名:瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺

歴史ある・・・・というのはもちろんですが、数奇な歴史のターニングポイントに立ち会ってきたお寺です。開創は、応永17年(1410年)大内家の支族鷲頭氏が石屋真梁禅師を迎え開創したと伝えられています。 石屋禅師は、18才で中国に渡り20年の修行ののち帰国。後小松天皇の勅命を受け、南北朝にわかれていた皇室を合一させ、皇室に絶大な信頼を得た人物だそうです。その学徳兼備の名声と遺勲で、かつては全国に六百数十ヶ寺に及ぶ末寺をもつ僧録寺として栄え「西の高野」と称えられたそうです。
境内には、関東管領上杉憲実の墓もあります。鎌倉府の政務にあたり、足利学校を再興した人物ですが、後に出家し西国行脚の後、ここ大寧寺で55歳の人生を終えたとされています。また、西国の大名大内氏滅亡の寺としても有名です。陶隆房(のち晴賢)の反逆で、太守・大内義隆主従は山口を追われ、ここ大寧寺で自害し大内氏は滅亡。境内奥の高台に大内義隆主従の墓があります。そのほか、当時、深川庄(現在の長門市深川)の領主だった元左大臣の三条公ョ・・・・たまたま大内義隆に招かれて山口に来ていたようで、大内氏滅亡の事件に巻き込まれ暴徒に襲われ無残な最期を遂げたと伝えられる・・・・のお墓もあります。毛利氏の時代になってからも、毛利家の香華院をはじめ萩藩毛利家の上級家臣の多くが境内に墓碑を建立しています。
時代が下がって・・・・明治維新前夜には七卿落ちした三条実美をかくまった寺だそうです。境内に豊川稲荷神社がありますが、明治維新当時の住職(45世、簣運泰成和尚)が明治政府の神仏分離令による妙厳寺豊川稲荷つぶしに対抗して、先の三条実美などの助けを得て、その危機を救った縁で分社されてるとのこと。何とも気骨のある方ですね。
とにかく・・・・歴史がてんこ盛り(?)のお寺です。知れば知るほど興味深いお寺です。なお、本堂に通じる大寧寺川に盤石橋(ばんじゃきょう)と言う自然石を組み合わせた橋がかかっています。橋の巨石に漢詩と建設の記録が刻まれています。この橋は、岩国の「錦帯橋」、山口にあった「虹橋」(橋もですが、周囲の景観も見事な橋でしたが、ダム建設により湖底に沈んでしまいました)と並ぶ「防長三奇橋」のひとつに数えられていたそうです 。
ずいぶん前の話ですが・・・・御朱印をいただきに行ったら、奥の方から住職さんが出てこられました。TANUKI の持って行った朱印帳、前のページが羅漢寺で、その前は法隆寺・・・・「あれっ?」って顔をされたので、実は羅漢寺でご住職さんからお話を伺って来ましたと言ったら、実にうれしそうに「そうですか。あそことは実に浅からぬご縁がありましてね・・・・。」と、羅漢寺とのことや、大寧寺の歴史などについていろいろお話をしてくださいました。羅漢寺もご住職が変わられたようですし、懐かしい思い出です。