TANUKI夫婦の古社寺巡り 西の京 山口の古社寺(古社編)
 
「一の宮」「二の宮」といった順番は誰が決めたのでしょうか?

 昔の国ごとに「一の宮」「二の宮」・・・・などと呼ばれる神社がありますが、どうやって順番を決めたのかについては、いくつかの説もありますが・・・・現在、『国司が任国内の諸社に巡拝する順番にある』というのが通説になっているようです。
 朝廷は地方の「国」ごとに国府を定め、国司を派遣して徴税や軍事、治安にあたらせました。
国司の仕事は多方面にわたり、宗教にまで及んでいます。新しく任命された国司は、その国の神社を順番に巡拝しなければなりませんでした。その順番は国が定めたものではなく、それぞれの国で由緒があり、民の信仰が厚いと思われる順だったようです。
 周防国の場合は、明応6年(1494年)、九州の戦陣から帰った大内義興(よしおき)が周防国内の5社に戦勝報告しました。その義興による参詣、周防五社詣(すおうごしゃもうで)の順によって、一宮から五宮とよばれるようになりました。ただし、一宮・二宮は義興参詣以前から、すでに定着していたようです。

大内義興像 龍福寺
玉祖神社 鳥居 玉祖神社 楼門 玉祖神社 拝殿
防府市大崎の玉祖神社・・・・「たまのおやじんじゃ」と読みます。周防五社のうち、4社は西ノ京「山口」ですが、一の宮だけは隣の防府市になります。「西の京の古社寺」に入れて良いか・・・・ですが、五社をまとめてと思いましたので悪しからず!
この神社、はっきりとした創建年は不明のようですが、日本書紀や738年(天平10年)の「周防国正税帳」にその名が記載されている大変古い由緒を持つ神社のようです。1195年(建久6年)には俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)上人が東大寺再建完成を感謝し、社殿を造営し、同時に10町の免田を寄進しています。
祭神は、延喜式神名帳には、『玉祖神社二座』とありますが、玉祖命のほかは不詳だそうです。玉祖命は、勾玉や管玉をつくる人々の祖先神で、三種の神器の一つ、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)をつくった神様と言われています。
出雲神社 鳥居が5基もあるそうです 出雲神社 拝殿 山口市指定天然記念物 大杉
起源が大変古く、長い歴史を持っていることは確かですが、正確な史実は不明です。由緒説明看板には、「大古出雲種族の佐波川流域への膨張発展に伴い、その祖神を鎮祭したものと考えられ」・・・・ 「鎮座は元正天皇の霊亀元年(715年)と伝えられている」と書かれています。
聖武天皇の天平9年(737年) には、周防国二の宮として勅許を受けていますし、奈良時代の「周防国正税帳」や平安時代初期の「延喜式神名帳」)に記載があるようで、奈良・平安時代の時点で格式ある神社として記録されていたようです。
中世以降には、大内氏や毛利氏等歴代の領主、藩主の祈願所として崇拝されています。大内義隆寄進状、毛利輝元禁制札、毛利宗廣社殿奉建棟札は神社の「社宝」となっています。ほかにも室町時代以降の古文書類が多く所蔵されているそうです。
石州街道沿いに 仁壁神社 一の鳥居 太鼓橋と二の鳥居 仁壁神社 本殿(拝殿)
拝 殿 から 本 殿 神 楽 殿 神社の森は とてもきれいでした
石州街道沿いの神社です。先の朝田神社とは山口の町を挟んで反対側になります。(朝田神社は大歳村、仁壁神社は宮野村)
大内義興が筑紫出兵の勝利報告に参拝した神社の順番が3番目だったので「三の宮」と呼ばれているそうです。TANUKI は若い頃、一時期この神社の前の道( 旧 石州街道)を通勤路にしていたことがありますが・・・・いつも鳥居を横目に通るだけで神社に立ち寄る余裕はありませんでした。
このページを作るために初めて訪れたのですが、神社周辺がとてもきれいなことに驚きました。神社の後ろに広がる、いわゆる鎮守の森も手入れがされていて美しい森でした。
境内では地域の方々による色々な行事が行われていることが案内板にも書かれていましたが・・・・地域の方々によって守られている神社なんだな〜と感じました。
地域の氏神様というのは、その土地に深く根付き昔から多くの人の祈りを受け止めて・・・・地域のコミュニティを守り、鎮守の森のように地域の自然を守ってきたことに大きな価値があるとTANUKI は考えます。いろいろな意味で地域のコミュニティが薄れてきている時代ですが、地域の氏神様は大切に守り続けなければならないと・・・・改めて思いおこさせてくれた神社でした。
なお、社殿は現在まで数度の火災に見まわれ、現在の社殿は平成12年及び平成21年に再建されたものだそうです。
参道は落ち葉が絨毯のよう・・・ 社殿は江戸時代後期の建立だそうです 紅葉も「散り紅葉」もきれいです
拝殿に龍の天井画・・・ 社殿には至る所に見事な彫刻が・・・
山口から山陰の旧豊浦郡神田(かんだ:現在は下関市)を結ぶ古道「肥中(ひじゅう)街道」沿いにある山口市吉敷地域の氏神様で「周防四宮」と呼ばれています。
肥中街道は、現在は国道435号線が街道に沿って走っています。赤田神社を過ぎると、道は「大峠」(おおたお・・・・山口では峠を「たお」と言います)標高350mの峠越えの道になります。TANUKI も美祢方面に行くときはこの道を利用しますが、いつも横目で見て通り過ぎるだけでした。
神社を訪れたのは秋でした。境内に大銀杏があり、黄色と紅色の紅葉がきれいでした。特に落ち葉の絨毯「散り紅葉」は見応えがありました。社殿は江戸時代後期の建立とのことですが、拝殿には龍の天井画が描かれていました。社殿の軒には彫刻が施されていました。思わず見とれてしまうほどの見事な彫刻でした。

この神社、元は吉敷郡木崎に鎮座していたそうで、前述の朝田神社同様、明治政府の神社統合政策によって、近くにあったほかの神社も赤田神社に遷され合祀されたようです。
朝田神社 楼門 朝田神社 拝殿 元旦の巫女舞
鐘楼 かなり年代を感じます 五の宮大明神(旧朝田神社)旧跡 今井 若宮八幡宮 旧跡
高井 八幡宮旧跡 岩富 黒川八幡宮旧跡 勝井 熊野神社旧跡
朝田神社は、周防・長門の国(山口県)から石見の国(島根県西部)へ向かう「石州街道」沿いにあります。
大内義興の五社詣で五番目に参拝した神社として「周防国五の宮」と呼ばれています。もとは朝田(山口市朝田地区)にあり「五の宮大明神」と呼ばれていたそうで、明治になって「朝田神社」として郷社となったようです。1906年(明治39年)神社統合政策(神社制令などと呼ばれていますが・・・・)により朝田神社と周辺の6つの村社が合併され、高畑地域の住吉神社の地(現在の朝田神社の場所)に遷されたとのことです。
神社統合策とは、明治政府の意向で1900年に内務省の出先機関として「神社局」をつくり、各地にある多くの小規模な神社を廃止し、より大きな地方神社に統合するという政策に沿った神社の統合政策です。神仏分離令もそうですが、結局は日本の伝統的文化を壊しただけで終わったのではないかとTANUKI は思うのですが・・・・。ま、神社もお寺も、その時々の為政者によって動かされたり統合させられたり・・・・いろいろ変遷をさせられていますね。
現在の朝田神社は、旧大歳村にあった1郷社6村社が高畑の住吉神社に合祀されて「朝田神社」となったようです。旧朝田神社と現在の朝田神社(旧住吉神社)、残りの5社のうち4社までは旧跡を訪ねることができましたが、上湯田地域の八幡宮跡は場所が特定できていません。「おそらくここでは・・・・」と思われる場所はあるのですが、そこが本当に八幡宮跡という資料を見つけられないでいます。

朝田神社を数年前に訪れたときは、田園風景の中に鎮守の森があるというような風景だったと記憶しているのですが・・・・コロナ渦が一段落して、改めて写真を撮りに行ってみたら・・・・神社の周囲を新興住宅地が取り囲み、全く違う風景になっていました。神社の総代を務められた方のお話では、除夜の鐘の音にもクレームが出てるとのことです。何か寂しい時代になった気がします。