鳳翩山系の鉱山跡

 鳳翩山系には古い鉱山跡が点在しています。江戸時代初期に毛利氏によって開発された「一の坂銀山」をはじめ、萩市の長小野地区には「長小野鉱山跡」、金鶏の滝上流には「東鳳翩鉱山跡」など多くの4鉱山跡が残っています。しかし、いずれもきちんとした保存はされていません。古文書などに残る鉱山跡も、ほとんど専門家の調査がなされていません。
 マブやたぬき堀りの跡も、年々土の中に埋もれてきています。時間(歴史)の流れの中に沈んでいくのは自然なことなのかも知れませんが・・・・何らかの形で記録し残していくことも大切な気がするのですが・・・・。
一 の 坂 銀 山 跡
 関ヶ原の後、防長2州に減封された毛利氏が、萩城建設の資金として開発したと言われています。最盛期には呉服屋とか八百屋、魚屋などもある町があったと古文書に記載されています。当初は「石見銀山」と並ぶ銀山だったようですが、早い時期に掘り尽くし廃抗となったと記録にあります。
 萩城下と瀬戸内の港「三田尻」を結ぶ萩往還。御成道として毛利の殿様も参勤交代で、高杉晋作など維新の志士も通った道ですが、その山口へ超える板堂峠の最高地点に国境の碑があり、そこから東側に下ったところにマブの跡やズリ山などが点在しています。
 前は、案内板もあり、整備されていたのですが、ここを管理していた「21世紀の森管理センター」が廃止となり、立入禁止になっています。せっかくの史跡が、このまま埋もれてしまうと思うと・・・・とても残念です。
昔は板堂峠に案内板がありました 甚内マブの抗口 周囲にもたぬき堀りの跡が点在しています
長 小 野 (佐々並) 鉱 山 跡
 西鳳翩山頂には無線の中継塔が数多くありますので、長小野地区から車道が延びています。その途中、長小野の集落から油峠(ゆのとう)に向かい、人家がなくなった先にスレート葺きの大きな廃屋があります。昭和40年代(?)まで、ここで採掘が行われていたそうです。廃屋は選鉱所跡で、坑道は渓流の反対側にあり、現在はコンクリートで封鎖されています。閉鎖されるまではトロッコのレールも敷設されていたそうです。また、周辺には試掘のための「たぬき堀り」の穴も多く残っています。
 銅および銀の採掘は、江戸時代に溯るそうで、銅の鉱石を美東の綾木、薬王寺製錬所まで運んでいたようです。明治期になってからは、ここ佐々並鉱山で製錬し、綾木・岩永・小郡経由で秋穂二島、見能浜から大分県佐賀関まで運んでいたという話です。今の道路から考えると、ずいぶん大回りをしているようですが、昔の道を知る手がかりとして、おもしろいですね。
また、昭和40年代は蒼鉛(ビスマス)の採掘をしていたそうですが、含有量が少なく閉山したようです。
西鳳翩山への車登山堂途中に廃屋が・・・ トロッコのレールが残っていました 試掘跡と思われるたぬき掘り跡
東 鳳 翩 鉱 山 跡
 東鳳翩山への登山コース「金鶏の滝コース」の途中にある鉱山跡です。古文書に記載されてる「東鳳翩山鉱山」の跡ではないかと思われます。渓流に沿うように、たぬき掘り跡と思える穴がいくつもあります。文献によると、「東鳳翩鉱山」として、金鶏の滝上流とあります。この場合の金鶏の滝とは、雄滝なのか雌滝なのかという疑問も残ります。
また、一の坂銀山の近くに「千之山鉱山」「松ヶ尾山鉱山」という鉱山があったという記録が残っていますが、いずれも調査はされてないようですし、その場所も特定できていません。
 文献によると、東鳳翩鉱山については昭和初期に銅を産出していたようで、渓流(これもどの流れか不明です)に沿ってマブが残っており、スラグも確認できるとあります。TANUKI は、まだスラグすら発見できていません
金鶏の滝・・・この上流部にあります たぬき堀りの跡と思われます 住居跡と思われる石垣・・・・
西鳳翩山登山道にある鉱山跡?
 山口から美東に至る大峠(おおたお)の山口側手前から西鳳翩山への登山道が延びています。この吉敷畑集落から西鳳翩から東鳳翩につながる尾根の鞍部「油峠(ゆのとう)」の間にも、たぬき掘りの跡と思われる穴や石垣の跡と思われるものが点在しています。この場所は、油峠を挟んで長小野鉱山跡の反対側斜面になります。古文書などにも記載はありませんので、試掘の跡かも知れません。
 いずれにしても、古文書などに見られる鉱山跡のほとんどは、その場所すら特定できていません。たぬき掘り跡などは、今後、ますます土に埋もれて分からなくなります。とても残念です。
猪よけの柵の先に登山道が延びています たぬき堀りと思われる跡・・・・ 何の跡か不明な石組みも・・・・
鉱山跡だと言い伝えられてる場所ですが・・・
 鉱山跡ではないかと思われる場所ですが、詳細は不明です。場所は、佐々並の市(いち)から鳳翩山の麓を通って明敷峠に抜ける道沿い。高津という集落と長小野集落の間付近です。
 鉱山跡ではないかという根拠は、地元のお年寄りの話で「昔、鉱山だった・・・・」だけです。いろいろ聞いてはみましたが、詳細は不明でした。採掘した時代すらも特定できませんでした。もう1つ、ここの石を砕石して道路の舗装に使ったら、周囲の稲に重大な被害が出たとか・・・・これについても、証言(?)だけで、確証はみつかっていません。
 で、お年寄りから聞いた場所を訪ねてみましたが・・・・が、資材置き場であったり、土を捨てる場所だったりしてたようで、それらしい痕跡は発見できませんでした。今後、何らかの客観的な資料が発見できたら・・・・と思っています。
廃校になった小学校の校舎だそうです 周辺の崖や森の中を探してみましたが・・・抗口の跡は見つかりませんでした
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